さて、やっと新緑の吉田山の続きです。(^^;
吉田神社の表参道から見た吉田山。
こうして見ると、吉田山は山というよりもこんもりとした森という感じですね。
いつも節分祭の時にしか来ないから、屋台のない表参道は新鮮…(^^;
参道のもみじも美しく輝いていました。
吉田神社は春日の四神を勧請し、平安京の鎮守神として、
清和天皇定観元年四月(859年)に創建された神社です。
第一殿 健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)
第二殿 伊波比主命(いはいぬしのみこと)
第三殿 天之子八根命(あめのこやねのみこと)
第四殿 比売神(ひめがみ)
が、祀られています。
この日、本宮ではちょうど結婚式がおこなわれていました。
「神鹿像」
この鹿については、2月の記事「節分祭@吉田神社」でふれています。
「山蔭(やまかげ)神社」 祭神…藤原山陰卿 相殿…恵比須神
包丁の神、料理、飲食の神様です。
節分祭の時にはこの向いに出来る河道屋の年越しそばに気をとられて
気づかずに素通りしておりました。(^^;
お料理が上手になるようにちゃんと手を合わせてきました。^-^
この手前に「菓祖神社」がある(節分祭@吉田神社参照)のですが、
今回は写真を撮ってこなかったので、坂をのぼって次の神社へ…。(^^;
「斎場所大元宮」…天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)
もう、神様の名前を言うだけで舌をかみそうですが、(^^;
要するにここには全国津々浦々の神様がいらっしゃる訳です。
節分祭のときにはなかに入れますが、どうやらふだんは中に入れないようです。
(この中の様子も「節分祭@吉田神社」に載せています。)
あとで見てみると、吉田神社のパンフレットには毎月1日、正月3日間、
節分3日間は内院の参拝が可能とありました。
(吉田神社の社務所に「吉田神社略記」「吉田神社とその歴史」
そして「吉田神社」というカラーのちらしがおいてあります。
寸志を納めていただいてきました。)
「竹中稲荷社」
パンフレットによると、鎮座並由緒は定かではないが、古記に
「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍に卜す云々」とあり、
天長年間(っていつ?^-^;)既に社殿が在ったようです。
現在の地には天保十一年(1840年)に造営されました。
地図によると、この近くに業平塚があるようです。
鳥居と新緑の重ね合わせ。
桜のシーズンには鳥居と桜の重ね合わせになるみたいです。
以上が吉田神社境内にある社です。
そして、竹中稲荷神社の横を少し行ったところに、
「宗忠神社」がありました。
ここは黒住教の教祖である黒住宗忠を祀る神社だそうです。
(ここは一連の吉田神社とはまったく別なのね…と、帰ってから知る。(^^;)
この新緑の参道を下ると、入り口にはおもしろい狛犬さんがいらっしゃいました。
ここの狛犬さん、逆立ちをしています…おもしろいですね。阿形と
吽形も逆立ちしています。
ここを出た後、黒谷さんへ向かいました。
黒谷さん、正式名は「金戒光明寺」。
ここは法然上人がはじめて草庵を営まれた地です。
そして、会津藩が京都守護職のおり、ここに本陣を構えました。
京都の人はこのお寺のことを「黒谷さん」と呼ぶので、
最初の頃、「黒谷寺」だと思っていた私…(^^;
新緑が美しい坂。
池の手前を左におれると、会津墓地参道があります。
ここでエナガの群れに出会ったのですが、
すばしっこすぎて結局1枚も写真におさめられませんでした。(^^;
墓地の一番高台にある三重塔。
寛永十年(1633年)に徳川秀忠公の菩提を弔うために建立。
この本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作らしいですが、見ることは出来ません。
そういえば、もう少し下には江(ごう)の菩提塔もありました。
ここは少し高台になっているので、緑の向こうには京都市内が望めます。
やや南側の木々の間からは京都タワーが見えました。
そして、脇の道を北にすすみ、一番奥にひっそりとあるのが会津墓地です。
文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と
鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑がありました。
松平容保が詠んだ句も記されていました。
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こえさへきよし 窓の呉竹
そしてこの伏見鳥羽の戦いの死者の弔いには、とある侠客が供養したという話が
黒谷さんのサイトに行くと載っていました…そうだったんだ。
墓地を通り過ぎると竹林があり、
その竹林の手前にはシャガが咲いていました。
<前回のお話>
あともう1回、「真如堂」の新緑に続きます。